「怒らない人」と「怒る人」成功するのはどっち? 向谷匡史氏が伝授する「イライラ」や「怒り」に隠された成功者のパワー 

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職場では、すぐ「怒る人」と、何を言われても滅多に「怒らない人」が存在するものです。
あなたの職場にも、どちらか、または、どちらもいるのではないでしょうか。

ここで1つ質問です。

 Q.すぐ「怒る人」と滅多に「怒らない人」では、どちらの人の方が職場のために良いと思いますか?

 

おそらく、あなたを含め多くの人が、後者の「怒らない人」と答えたのではないでしょうか?

では、もう1問お付き合い下さい。

Qあなた自身は「怒る人」と「怒らない人」どちらでいる方が、あなたの人生にとって良いでしょうか?

こちらは少し難しいですよね。
怒ってもいないのに「怒る人」になる必要はもちろんありません。
しかし、職場には 

・理不尽な上司

・ノーテンキな部下

・身勝手な同僚

・無理難題を押しつけるクライアント

など、すぐ「怒る人」ではなくても「怒るべき相手に怒るべき時」があります。
そんな時、あなたは我慢をせずに、きちんと怒ることができているでしょうか?
もしかして「怒らない人」を貫いてしまってはいませんか?

「怒らない人」は、良い人間関係を築けたり周囲に好かれたりと、一見「幸せ」な会社生活や人生を送れそうな気がするかもしれません。 

しかし、怒るべきときに「怒らない人」というのは、これは実は、自分をごまかしていることになるのです。
自分のことをごまかして生き続けると、心に不満がたまります。
そして、そんな自分のことがイヤになってしまうのです。

また、一見幸せな会社生活を築けそうな「怒らない人」ですが、実は逆路線に行ってしまう可能性があります。
なぜなら、仕事に熱意がないようにとられ、煮え切らず頼りない人だなと判断されてしまうからです。

こんな実話があります。

温厚で仕事のできるある男性社員が「仕事のために自分の企画や意見を貫く」ことより「人間関係を壊さない」ことを選び常に「怒らない人」を続けていたところ、残念ながら最前線の部署から閑職の部署に飛ばされてしまったのです。

プライベートでもそうですが、仕事では特に「自分はこうしたい・こうありたい」という強い意志を持って取り組んでいくと、必ずどこかで他人とぶつかるときがきます。
そのときに、仕事への熱意が強ければ「怒り」という感情が芽生えます。これは人間として当然のことなのです。

その当然な「怒り」を我慢して自身をごまかし、「怒らない人」を貫いてしまっては、仕事に熱意がないようにとられ、「煮え切らない、頼りない人だな」と判断されても文句はいえません。

そして人間関係を壊さないようにした結果、人間関係を築けるどころか信用を失い、「やりたい仕事」から外されてしまう。
実際、そんな「怒らない人」が少なくありません。あなたは、そんな切ない結末になるなんて嫌ですよね。

しかし、だからと言って、いきなり「怒る人」になりましょうと言われても難しいものです。

では、怒るべき時にきちんと「怒る人」になり、仕事への熱意を認められるにはどうしたら良いのでしょうか?

それに答えるのが、作家であり僧侶でもある向谷匡史氏です。

「僧侶」であるのに、怒るべき時にきちんと「怒る人」になる方法を教えてくれるなんて、少し意外に思われるかもしれません。
どちらかというと「常に怒らず人を赦しましょう」と説きそうなイメージの職業です。

しかし向谷氏は、この世は「弱肉強食」であり『「怒らない人」は損である』とまで言っています。
ここまでハッキリしていると清々しく、とても心強いですよね。

そんな氏は「人間社会を鋭くとらえた観察眼」に定評があり、

『成功者は例外なく「熱い人間」である。そして「怒り」をポジティブな「パワー・モチベーション・エネルギー」などに変えてのし上がっていく』と断言しています。

それをふまえて本書では、

一般的に「ネガティブ」に扱われている「怒り」を「パワー・モチベーション・エネルギー」などに変えていくことで、あなたが「人生の成功をつかむ方法」をしっかりと伝授してくれます。

さらに!

「怒り」を否定せず、「怒り」に振り回されず、その「怒り」をどのような言動に表せばよいか、時と場合に応じた『「怒り」の表現の仕方』のテクニックも具体的に解説しています。

あなたは、怒りたいときにも怒ることが出来ずに悩んではいませんか?

 向谷氏の

・「怒り」をエネルギーに変えていく方法

・時と場合に応じた「怒り」を表現するテクニック

を習得し実践すれば、怒るべき時に感情に振り回されない方法で怒ることができます。
そうすると、仕事への熱意が伝わり信用が得られ、人間関係も逆に壊れることなく、あなたの仕事をやりとげることができるでしょう。

さあ! あなたも人生の成功をつかむために、早速読み進めて行きましょう!

プロローグ
「怒れないこと」に嫌気がさしていないか?
自分に対するごまかし
〝ダブル〟で自己嫌悪
怒れない人間は〝負け犬〟である
モチベーションと《怒り》
草食系は絶滅種と心得よ!
第1 章 あなたは「怒れない」だけでこんなに損してる    
「怒らない人」は〝社会の傍観者〟
怒りには「反射」と「反応」の二種類がある
怒らないことによる不利益
笑顔で怒る自己演出術
《怒り》はハリネズミの〝針〟になる
怒ることのできない人は、自分の本音が言えない
「怒らないヒーロー」はいない
「怒らない」というストレス
《怒り》は貯蓄性の高い感情
《怒り》というマグマは地盤の弱いところから噴き出す
怒れない人は〝いい笑顔〟になれない
《怒り》には「愛」がある
高度経済成長期は、人も社会もたえず怒っていた

 

プロローグ

「怒れないこと」に嫌気がさしていないか?

―あなたは、自分の性格のどこが嫌いですか?
あるセミナーで、そんな質問をしてみました。

「嫌いなとこなんかないですよ」
「ぜ〜んぶ好き」

という人もいらっしゃいましたが、これはもちろんジョーク。

どなたも、
「私は自分のこんな性格が嫌い」

という〝悩みのタネ〞が、たいてい一つや二つ—いえ、人によっては三つも四つもあるものです。

そんな中で、
(おや?)
と私が思ったのが、

「怒れない自分がイヤ」
という発言でした。

「怒らない」ということは、幸せな日々を送る「最高の生き方」とされています。

だから、

「いかにすれば怒らないですむか」
「いかにすれば怒りを鎮められるか」

といった書籍がたくさん出版され、ベストセラーにもなっています。

それなのに彼―二十代の若い男性は「怒れない自分がイヤ」だというのです。

そこで、私は彼に質問してみました。

―どうして怒れない自分がイヤなのかな?

「だって、頭にきて怒鳴りつけてやりたいのに、それができなくて黙ってしまうから」

そんな自分を嫌悪するというのです。

すると、どうでしょう。
彼の発言をきっかけに、

「俺もそうだな」
「そういえば私も」

といった声が相次いで起こったのです。

 

自分に対するごまかし

でも、この彼も、「俺も」「私も」と賛同した人たちも、実は「自己嫌悪の本質」を見落としています。それは「怒れない自分」がイヤなのではなく、

「自分をごまかす自分」
「自分に言い訳する自分」

というものに対して嫌気がさしているということなのです。

ちょっと理屈っぽくなったので、例をあげましょう。

若い編集者とレストランで打ち合わせをしていたときのことです。

すこし離れたテーブルで、幼稚園くらいの男児をつれた若夫婦が食事をしていました。若夫婦はワインを楽しんでいますが、早々に食べ終えた男児がヒマを持て余し、店内をうろうろし始めました。

「あの夫婦、平気な顔していますね」

編集者がムッとした顔で私に言います。
「亭主に注意してやれよ。子供のしつけにもなる」

「そうですね……」
と返事しながらも一瞬の躊躇があって、

「でも、あのバカ夫婦に言っても通じないでしょう。余計なことして不愉快になるのもイヤですから」

と言ったのです。

これが本心であれば、彼に精神的ストレスはないでしょう。でも、「注意したくてもできない自分に対する言い訳」であったとしたらどうでしょう。注意できなかったことより、できなかった自分をごまかしていることがイヤになりませんか?

 

〝ダブル〞で自己嫌悪

あるいは、知人が居酒屋で、私に憤懣をぶつけたことがあります。電車の優先席にヤンキー風の若者が大股を広げて座り、ケータイでペチャクチャ話をしていたのだそうです。

「張り倒してやればよかったのに」
私が言うと、

「そう思ったけど、あんな人間、相手にするだけ損だと思ってさ」
いまいましそうに言って、ビールを呷りました。

知人は怒鳴りつける勇気がなかったのです。でも、勇気のなさを認めるのはつらいことです。だから「相手にするだけ損」という言い訳を自分にすることによって、「勇気がない」から目をそらそうとするのです。

でも、自分にウソをついていることは、自分がいちばんよく知っています。知人がこの夜、悪酔いしたのは、きっとそのことがあったからでしょう。

「怒れない自分がイヤ」
ということの〝本質〞は、

「ごまかす自分がイヤ」
ということなのです。

もっと言えば、「怒れない自分」に嫌気がさし、さらに「自分をごまかす自分」に嫌気がさすという〝ダブル〞で自己嫌悪に苦しむことになるのです。

 

怒れない人間は〝負け犬〞である

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自分に嫌気がさせば、人生を積極的に生きていくことは難しくなります。職場で「怒れない」ということになると、精神的なダメージに加えて、出世や仕事の成果にまで関わってきます。

私が、某出版社の編集企画会議に参加したときのことです。

中堅編集者のA君が出した企画に対して、
「そんな本、誰が買うんだよ。売れるわけないだろう」

同僚のB君が批判しました。会議ですから批判は構わないとしても、「売れるわけないだろう」はちょっと乱暴です。

「何だ、その言い方は!」
とA君が怒って当然―と思っていたところが、

「ま、たしかにマニアックな企画かもしれないけど……」

気弱な笑みを浮かべて、企画を引っ込めてしまったのです。

会議が終わってA君と居酒屋へ流れた席で、
「何であのとき怒らなかったんだい」

と訊ねてみると、
「一時の感情で怒ると、人間関係がおかしくなりますから」

このときも気弱な笑みを浮かべて言ったのです。

A君は誠実で、編集者として優秀だと私は買っているのですが、残念ながら社内でも、著者たちの間でも信頼度はイマイチです。理由は、煮え切らないからです。ケンカしてでも企画を通すという気構えに欠けます。自分が提案した企画にケチをつけられても、怒ることもしない。「温厚」と言えばそのとおりですが、それだけに頼りなく思えてしまうのです。

やがてB君がデスクに出世し、A君は出版部から飛ばされ、閑職につくことになります。もし、A君が怒ることのできる人間であったなら、もっと熱い人間であったら、人事は変わっていたろうと残念に思ったものです。

吠えることも、噛みつくこともできず、曖昧に尻尾を振ってみせるだけのA君は、結局、「負け犬」になったのです。

 

モチベーションと《怒り》

とはいえ、怒ることが好きな人間は、そうはいないものです。

怒らなくてすむなら、それに越したことはありません。お互いが相手のことを尊重し合い、助け合い、和気藹々と仕事ができれば、怒る人は一人もいないでしょう。

でも、現実はそうじゃありませんね。

理不尽な上司、ノーテンキな部下、身勝手な同僚、無理難題を押しつけるクライアント、裏切る友人……。人間関係という厄介なものをかかえて生きている以上、《怒り》は日常的についてまわります。

《怒り》を押し殺し、自分をごまかしながら生きるのもいいでしょうし、右の頬を打たれれば左の頬を差し出すのもいいと思います。「人が先、我は後」という生き方だってあります。それを私は否定しません。

しかし、利害が錯綜する社会において、

「私はこうしたい」
「こうありたい」

という強い意志を持って生きていくならば、必ずどこかで他人とぶつかります。障害物として前途に立ちはだかってきます。そして、「こうしたい」「こうありたい」という意志が強ければ強い人ほど、

「邪魔するな!」

と、立ちはだかる障害物に対して、怒りの感情が生まれてきます

編集者のA君の例でいえば、
「どうしても、この企画を通したい」

というモチベーションが高かったならば、企画を批判したB君に対して怒り、反論したはずです。ところがA君は企画を通すことよりも、B君とぶつかることを恐れた―つまり、企画に対するモチベーションが低かったがゆえに、怒ることができなかったということになります。

あなたの周囲を見まわしてください。
広く世間に目を転じてみてください。

政治家、実業家、野球やサッカーの選手や監督、有能な上司、さらにヤクザからホスト、ホステスまで、成功している人は例外なく〝熱い人間〞のはずです。彼らは目的を遂げるために、夢を実現するために、立ちはだかる障害物に対して、

「そこをどけ!」

と、激しい《怒り》をもって蹴散らし、乗り越えて今日の成功を手にしているのです。

 

草食系は絶滅種と心得よ!

この世の中は弱肉強食です。
これが現実です。

しかも終身雇用制が崩壊し、グローバル経済となったいま、リストラと隣り合わせで生きていかざるを得なくなってきました。怒ることのできない「草食系」は、もはや絶滅種になってきたのです。

もし、あなたが「怒れない自分がイヤだ」と思っているなら、それは無意識に絶滅種となることに対する危機感のあらわれであると言っていいでしょう。

言い換えれば、そこに気づき、怒りをポジティブなエネルギーに変える必然性に気づいた人だけが、自分を変え、大きく飛躍するチャンスをつかんだことになるのです。

本書は、《怒り》をポジティブに活かす方法について、具体例をあげて解説しました。

烈火のごとく怒って見せることもあれば、理詰めで追い込むこともあります。《怒り》を笑顔の下に隠し、やんわりと首を絞めていく怒り方もありますし、二階に上げておいてハシゴを外すという奇計もあります。

成功者は、《怒り》をポジティブな「パワー」「モチベーション」「エネルギー」に変えることでのし上がっていくのです。

一読すれば、これまでネガティブに扱われてきた《怒り》こそ、実はエネルギーの源泉であることがおわかりになるものと確信する次第です。

 

第1章
あなたは「怒れない」だけでこんなに損している

「怒らない人」は〝社会の傍観者〞

すぐにカッとする人と、
「まっ、いっか」

と他人を赦す人をくらべれば、どっちが人格者でしょうか。

「そりゃ、後者に決まってるじゃん」
というのが世間的な評価ですが、本当にそうでしょうか。

「まっ、いっか」と受け流す人は、単に無関心であるに過ぎないのです。やってはいけないこと、あってはいけないこと、理不尽なことに対しては、まず「怒る」というのが人間として正しい反応であり、「人格者」だと私は思います。

そんな話を、私がある席でしたところ、

「お坊さんが言うことじゃないですね」
と揶揄されました。

なるほど、そうですね。私は浄土真宗本願寺派の僧籍を持っていますので、怒ることの愚かさを説くのが役目なのに、「怒ることが正しいとは何事か」―というわけです。

怒りのことを仏教では「瞋恚」と言います。

「貪欲(むさぼり)・瞋恚 (いかり)・愚痴(おろか)」の三つを三毒といって、煩悩の根本とします。これが人間を苦しめる諸悪の根源というわけですが、言い換えれば、《怒り》は、すべての人間が生まれながらに宿す煩悩であり、これは死ぬまで消えないということになります。

となれば、人間は怒るのが当たり前。これは本能と言ってもいいでしょう。

ただし―ここが大事なところですが―カッとなった怒りの感情は、どういう形で表すかによって、マイナスにもプラスにも作用するということです。仏教は「怒りの感情」を否定するのではなく、それを言動にどう表すかを問題にしている―と私は解釈するのです。

 

怒りには「反射」と「反応」の二種類がある
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スポーツに「フェイント」というのがあります。

たとえばバレーボールで強烈なスパイクを打ち込むと見せかけ、相手ブロックがあわててジャンプした背後へポトリと落とす—なんてのは、よく見るテクニックですね。

私は空手道場を主宰していますが、十代のころ、いつもフェイントに首をかしげていました。突くと見せかけて蹴ったりするのですが、なぜ相手はフェイントに引っかかるのか。経験則で知ってはいても、そのメカニズムがわからなかったのです。

結論から言えば、フェイントは「脊髄反射」であり、《怒り》もまた、同様のメカニズムを持っているのです。

もう少し、くわしくご説明しましょう。

人間の身体は脳が命令を出しています。脳から発した命令が、脊髄という神経幹を通って身体各部に伝わります。たとえば、風呂の湯船に浸かっていて、次第に熱くなっていけば、肌がそれを感知して脳に伝え、脳は「そろそろ出たほうがいいぞ」と手足に命令を発して湯船から出ます。

これを「反応」と言います。

ところが、ぬるいと思って湯船に足を差し入れたところが、高温であったらどうでしょう。

「熱ッチチ!」

と思わず足を引き抜きます。脳は「足を動かせ」と命じてはいないのに、足が勝手に動いています。

これが「脊髄反射」というやつです。

「反応」でなく「反射」です。

フェイントに引っかかるのは、脳の命令―つまり、考えることなく、身体が反射的に動くというメカニズムによるというわけです。

《怒り》も同じです。
(あッ、ケータイかけてやがる!)

電車内でカッときて、
「てめぇ、ウルセーぞ!」

いきなり怒声を発するのは「怒りの反射」。
「何だと、この野郎!」

と、相手が「怒りの反射」を返してくれば、ケンカになってしまいます。「怒りの反射」はマイナスに作用することが多いのです。「ついカッとして」という言葉は、暴力事件を起こした人がよく口にするセリフですね。

《怒り》をプラスに活かすには、「反射」ではなく、脳からの命令によって「反応」するものでなければなりません。つまり、「怒り方=技術」ということなのです。

 

怒らないことによる不利益

電車内のケータイ電話といった問題であれば、《怒り》を我慢しても実害をこうむることはありません。「怒れなかった自分」に嫌気がさそうとも、それによって現実的な不利益があるわけではありません。

しかし、たとえば会社で同僚に手柄を横取りされた場合はどうでしょう。自分が努力してまとめた契約なのに、同僚が得意になって上司に報告し、同僚の株があがったとします。

カッとするのは誰しも同じです。
「この野郎!」

と、いきなり「反射」で怒ったらどうでしょう。

上司も周囲も事情を知りませんから、
(何だ、こいつ。嫉妬から逆恨みしているのか?)

と思われるかもしれません。

ならば、ここは大人の対応をして、「まっ、しょうがないか」とあきらめるのはどうでしょうか。これもマズイ。この同僚は、あなたをナメてしまうことになります。次からは堂々と手柄を横取りするでしょう。怒るべきときに怒っておかなければ、実害として今後に影響してくるのです。

 

笑顔で怒る自己演出術

実を言うと、手柄を横取りされたのは、広告代理店の営業マンをやっている知人の子息です。二十代後半で、仕事はこれからが勝負の年代。いきさつを聞いた私は、放っておくのはよくないと判断し、こんなアドバイスをしました。

「ニッコリ笑顔でクギを刺せ」
たとえば、こんなセリフです。

「キミが課長に報告した契約の件だけど、あれは俺がまとめたんじゃないか。今回は目をつむるから、次は気をつけてくれよ。俺だって趣味で仕事をしているわけじゃないんだから」

低い声で言えば、笑顔と〝落差〞があるぶんだけ、相手はドキリとするものです。なぜなら、本当は怒鳴りつけたいのにぐっと我慢している―と相手は受け取るからです。しかも笑顔によって、〝ケンカ腰〞は回避されていますから、敵対関係になることが苦手な人にもできるはずです。

《笑顔+低い声》という方法は、私が週刊誌記者時代、ヤクザ幹部を取材したときに学んだ方法です。飲食店経営者が「借金の返済を一週間待ってほしい」と組事務所にたのみに来たときのことです。幹部は笑みを浮かべながら、ドスのきいた低い声でこう言ったのです。

「わかった。だけど、俺だって、いつも機嫌がいいわけじゃねぇんだぜ」

《笑顔+低い声》という落差に、飲食店経営者は青い顔をしたものです。脅しのプロは、自己演出という「反応の怒り」で相手にクギを刺すのです。

 

《怒り》はハリネズミの〝針〞になる

一歩譲れば、二歩踏み込んでくる。
これが人間関係です。

だから、
「あいつをナメてかかるとヤバイ」

と周囲に一目置かせる必要があります。

そこで、《ハリネズミの怒り》です。

ハリネズミは自分からは攻撃を仕掛けませんが、攻めてくる相手に対しては針を逆立てます。ナメてかかった相手は予期せぬ逆襲にビックリで、

「こいつに手を出すとヤバイ」
ということになる。

ハリネズミの〝針〞に相当するのが《怒り》です。

参考になるのが、大阪市の橋下徹市長です。

メディアは「ナニワのケンカ師」と名づけました。慰安婦問題では失言でミソをつけましたが、当時はアベノミクス一色で「日本維新の会」は霞んでいましたから、橋下市長は話題づくりのため、批判を承知で過激発言をしてみせたのだと思います。狙いどおり話題になりましたが、想定以上の批判にあわてたといったところでしょう。

それはさておき、橋下市長のケンカ術の特徴は〝ハリネズミ式〞です。自分に対する批判に対しては徹底して怒ってみせ、批判を封じていくやり方です。

たとえば「日本維新の会」結成当初、自民党を離党して参画した松浪健太衆議院議員が、自身のブログに《言うべきことは、忌憚なく言わせてもらうことにした》と書き込み、橋下氏に噛みつきました。

《国会議員団と代表の意見がねじれた場合の対処方(原文ママ)を明確にしていく》

《よほどのことがない限り、国政における決定は議員団ですべきことを橋下代表も認めた》

威勢よくブチ上げ、メディアは橋下氏への〝宣戦布告〞と報じ、大きな話題になりました。

そこで、橋下氏はどう反応したか。

「国会議員団の大きな方針や戦略で、有権者の皆さんが本当についてきてくれるということであれば、日本維新の会に所属しなくてもいいではないか」

俺の下にいるのがイヤなら出て行きゃいいだろう―と、ハリネズミの〝針〞を逆立てて見せたのです。

これには松浪議員もあわてて、
《大きな戦略や方針について、代表が決めるのは当然である》

と〝恭順〞の意を表して一件落着したのです。

もし、松浪議員の批判に対して、橋下氏が笑って受け流していたらどうでしょうか。「一歩譲れば二歩踏み込んでくる」

というのが人間関係ですから、松浪議員は主導権を握るべくイケイケで攻め立て、橋下氏の威信は大きく揺らいだことでしょう。

一歩どころか半歩も譲らず、《怒り》という鋭いトゲで撃退する。これが《ハリネズミの怒り》というわけです。

したがって、この〝針〞を持たない人は、一歩も二歩も三歩も、ドカドカと土足で踏み込まれ、蹂躙されてしまうのです。

 

怒ることのできない人は、
自分の本音が言えない

私たちは、何より「和」を大事にします。

「和をもって貴しとなす」と言った聖徳太子の昔より、「和」は日本文化の美風とされてきました。協調性はもちろん大切なことですし、それを否定するつもりは毛頭ありませんが、協調性とは多数決に従うということであって、自分の本音を封じるということではありません。本音を封じてしまえば不満が溜まり、むしろ「和」を乱すことにつながっていくことさえあるのです。

でも、本音を口にするのは勇気がいります。論戦になれば、険悪な雰囲気になることもあるでしょう。それがイヤで、つい本音を隠してしまいます。

だから、場の雰囲気に合わせようとするのです。

たとえば、会議。

結論は〝仕切り屋さん〞の意図する方向に落ち着くもので、

「まっ、いろいろご意見はあると思いますが、ひとつ、そんなことでいかがでしょうか」

といった調子でまとめにかかりますが、ここで、

「私は反対です」
と異論を挟むのは、とても勇気のいることです。

(こいつ、議論を混ぜっ返す気か)
という目で見られるのではないか。

「あいつは協調性がないな」
と、あとで陰口を叩かれたりするのではないか。

この「ではないか」ということを恐れ、
「みなさんがよろしければ、私も賛成です」

と、本音を封じることになるのです。

でも、そんな生き方は正しいのでしょうか。

周囲に迎合する生き方ばかりしていると、自分というものを見失ってしまいます。糸の切れた凧と同じで、右に左に風まかせ。突風にあおられれば、キリキリ舞いして墜落することになります。

(その意見には賛成できない)
と思うなら、堂々と本音を口にすべきです。

(それは間違っている)

と怒りがわいてきたなら、それを口にすべきです。

本音も言えず、怒ることもできない人は、「協調性に富んでいる」という評判と引き替えに、自分というものを放棄しているに過ぎないのです。

 

「怒らないヒーロー」はいない

自分の意見を放棄しようと、感情を押し殺そうと、「怒れない自分」に納得しているなら、それはそれで一つの生き方だと思います。他人の生き方についてとやかく言う権利は誰にもありません。

でも、本心から納得している人が、どれだけいるでしょうか。

象徴的な話があります。

知人に「ヤクザ雑誌」の編集長がいますが、彼によると、読者層は三つに分かれるそうです。一つは、ソノ筋の人たち。他組織の動向や、人物紹介など業界の情報を得ることを目的として雑誌を買っています。

もう一つは、飲食店やフーゾク店といったグレーゾーンで仕事をしている人たち。ソノ筋と密接に関わっているため、情報として知っておく必要があるからです。

そして、三つ目の読者層は、意外にも学校の教師や公務員だそうです。

編集長は言います。

「教師や公務員は絶えず世間の批判の目にさらされていますからね。自分を殺し、《怒り》を封じ込めています。その代償行為として、アウトローにあこがれるのでしょう。傍若無人に振る舞ったり、肩で風切って歩いたり……。〝自分も、ああいう生き方をしてみたいな〞とね」

これは〝怒りのマスターベーション〞であり、決して健全な生き方とは言えないでしょう。

私は小説も書きますし、劇画の原作も手がけます。Vシネマの製作にも関わってきましたが、その経験から言えば、ストーリーの基本は「勧善懲悪の復讐劇」―すなわち《怒り》です。この基本ストーリーに笑いや涙、恋愛などをからめて娯楽作品に仕上げるわけです。

たとえばテレビドラマの『水戸黄門』や刑事ものは、その典型でしょう。正義が最後にワルをやっつけるわけですが、正義感とは「怒り」です。この「怒り」に視聴者は感情移入して拍手喝采するのです。洋画だってそうですね。アクション映画のコンセプトが「怒り」であることは、ご承知のとおりです。

つまり、「怒らないヒーローはいない」ということなのです。人生において、仕事においてヒーローになりたければ、怒ることです。《怒り》の希薄な人は、それだけで大きなハンデを背負っているということに気づくべきです。

 

「怒らない」というストレス

「《怒り》を活かす」
という言い方をすると、

「それって、身体に悪いんじゃない?」
と疑問を投げかける人がいます。

そのとおりです。《怒り》がストレスとして神経に作用し、胃潰ようや高血圧を引き起こすという研究結果が報告されています。医学的見地からも、《怒り》は身体によくないことは事実です。

でも、ちょっと待っていただきたい。

ストレスが神経に作用するのは、《怒り》だけでしょうか?
ここに誤解があります。

たとえば、恐怖はどうでしょう。人を一夜にして白髪にしてしまうほど、非常に強いストレスを身体に与えます。

あるいは、プレッシャーはどうでしょう。オリンピック選手が、プレッシャーのあまり、試合前日に円形脱毛症になったという事例があります。吐き気がしたり、食事がノドを通らないというのはよくあることです。

不安や心配もそうですね。これらが高じると寝込んでしまいます。健康に影響するどころか、自殺する人だっています。

さらに《怒り》とストレスの関係で言えば、怒らないこと―つまり、我慢し、自分の感情を押し殺すことによっても、ストレスが生じます。《怒る》こともストレスであるなら、怒らないこともまた、ストレスであるというのが正しいのです。

 

《怒り》は貯蓄性の高い感情

ストレスが身体に悪いのは、溜め込むからです。「ストレス発散」という言葉があるように、溜め込まないでうまく発散さえしていれば、何でもないものです。むしろ適度のストレスは身体への刺激として必要だとされます。いえ、理屈をこねなくても、生きている以上、私たちはストレスとは無縁ではいられないのです。

だから、腹が立ったときは《怒り》として発散するべきです。発散といっても、怒鳴ったり、ケンカしたり、相手を批難することだけを意味するものではありません。これについては、第3章以降でくわしく紹介しますが、要は《怒り》は溜めないということが大事なのです。

意外と見落とされていますが、《怒り》は溜めると利子がつくことをご存じですか。自分を押し殺し、我慢すればするほど、《怒り》は日増しに大きくなっていくという性質を持っているのです。

このことは、ハッピーな気持ちとくらべてみると、よくわかります。嬉しかったことや楽しかったことは、それを一つずつ貯めていっても利子はつかないものです。なぜかというと、人間には本能としての欲があるため、

「もっとハッピーなことがあるんじゃないか」
と、際限なく求めていくからです。

たとえば、十万円の指輪を彼女にプレゼントしたとします。最初はとても喜んでいても、彼女はそのうち、もっと高価な指輪が欲しくなってきます。これが人間の欲というものです。

ならばと、三十万円の指輪を奮発してプレゼントします。彼女は大喜びしますが、このとき十万円の指輪をもらったときの感激は、どこかへ消え去ってしまっているのです。

「つぎ」を求める心が、これまで手にしたハッピーを次第に色あせたものにしていく。ハッピーなことには利子がつかないというのは、そういうことをいいます。

我慢は逆です。

「なぜ、私だけがこんな目にあわなくちゃならないのか」

という我慢は、それを発散しない限り、どんどん心のなかで溜まっていきます。新たな我慢によって、前の我慢が消えるのではなく、加算されていく。これが厄介なことを引き起こすのです。

例をあげて説明しましょう。

 

《怒り》というマグマは
地盤の弱いところから噴き出す

ご主人の帰宅が毎晩、遅い家庭があります。会社の接待ということですから、奥さんは不満があっても文句は言いにくい。休日も接待ゴルフです。

「たまには子供と遊んでやってよ!」

と何度、怒りの言葉が出かかったかわからない―とは、あとになって奥さんが私に語ったことです。

奥さんは我慢しました。

でも、我慢は発散しない限り溜まります。利子もつきます。そして、我慢が飽和点に達したある日、小学校四年生の長男に向かって怒りを爆発させたのです。

「どうして勉強ができないの!」
「部屋をちゃんと片づけるように言ってるでしょ!」

そして、頬をバシーン!

手をあげてしまったのです。長男は家を飛び出し、大騒動になってしまいました。

長男の心は傷つき、母親はいまも悩んでいます。

もうおわかりでしょう。

夫に対する我慢が、形を変えて噴火したのです。

奥さんは素直に怒ればよかったのです。夫婦ゲンカになったとしても、そこは大人同士ですし、〝犬も食わぬ夫婦ゲンカ〞。すぐにおさまり、夫も妻の気持ちを理解して家庭サービスに努めたはずです。

《怒り》はマグマのようなもので、地表から噴出させない限り、心という地中で沸々と煮えたぎっています。そして飽和状態に達すると、地盤の弱いところから噴き出すのです。奥さんが長男に当たったのは、そういう〝怒りのメカニズム〞によるのです。

繰り返しますが、溜まった《怒り》は噴出しないかぎり消えないものです。そして、本人がそうと気がつかないまま、誰かに《怒り》を噴出させることで精神的なバランスを取ろうとします。会社で《怒り》を我慢して帰宅した夫は、奥さんや子供に当たったりします。あるいは居酒屋で一杯ひっかけ、酔って電車でケンカしたりします。

怒るべき相手、怒るべき対象にぶつけることのできない人は、結局、新たなトラブルや不幸をかかえ、苦労することになるのです。

 

怒れない人は〝いい笑顔〞になれない

「怒りたいのに、怒れない」
という人は、小心者です。

怒ることによってデメリットが生じるのではないか―そんなことを考え、周囲の顔色をうかがうから、怒ることに躊躇します。

こういうタイプの人の笑顔は、たいてい目が笑っていないものです。

「面白いから笑う」
「楽しいから笑う」

というのではなく、ここで一緒になって笑わなければ、この人は気を悪くするかもしれない―そんな計算から生まれた笑顔が多いからです。

笑顔には人格が表れます。

口が笑い、顔が笑い、目が笑い、天真爛漫な笑顔は、それだけで引き込まれ、相手の心をなごませ、

「この人は信用できるな」
という思いにさせます。

反対に、声こそアッハッハと笑っていますが、キョロキョロ周囲をうかがったり、冷ややかな目をした人は、何か別のことを考えているようで、

「この人、二重人格じゃないか」

と、落ち着かない気分にさせられるものです。

素直に怒れる人は、笑顔がとても素敵です。自分の気持ちに誠実であるからでしょう。笑顔にも誠実さがにじみ出てくるのです。

二〇一三年一月十五日、映画監督の大島渚さんが亡くなりました。

ご承知のように『戦場のメリークリスマス』をはじめ、日本映画界に新風を吹き込んだ人ですが、いつも怒っていました。私は週刊誌記者時代、何度か取材でお目にかかったことがありますが、貧困や差別といった不条理に対して、強烈な怒りを持っていらっしゃいました。

大島監督が遺した手紙に、

《大のオトナがあえて〝怒り〞を隠さないことこそが社会を良くすることに繋がる》

と書かれていたそうですが、「もっと怒れ」ということを言い続けた硬派でした。

その大島監督にお目にかかったときのことです。ずいぶん昔のことなので詳細は忘れてしまいましたが、監督は日本社会の現状を痛烈に批判したあと、ちょっとした冗談を口にして、アッハハと笑った、その笑顔が、子供のように無邪気であることに驚いたものです。

このときの印象が強烈だったせいか、芸能人やスポーツ選手、文化人など著名人にインタビューするときは、相手の「笑顔」を注意深く観察するようになりました。その結論が、前述のように「素直に怒れる人は、笑顔がとても素敵」ということなのです。

 

《怒り》には「愛」がある

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意外に思うかもしれませんが、《怒り》の前提には「愛」があります。

「勉強しなさい!」

と母親が叱るのは、わが子が可愛いからで、他人の子供を叱ったりケツを叩いたりすることはありません。勉強しようがしまいが、どうでもいいことだからです。いたずらをすれば別ですが、そうでない限り、他人の子に対して怒ることはありません。

私が空手道場を主宰していることはすでに書きましたが、

「この子を試合に勝たせてやりたい」

と思うからこそ、稽古に手抜きをすると怒るのです。勝とうが負けようが、道場をやめようがどうでも好きにしろ―ということであれば、怒ることはないでしょう。

あるいは営業会議で、
「一日百軒の飛び込み営業をしたらどうでしょう」

という同僚の提案に対して、
「そんなの無意味だ」
と、あなたが反対したとします。

「なぜだ」
「営業は量でなく、質で勝負すべきだ」

「いや、量だ!」
「質だ!」

丁々発止の議論は、「いかにすれば営業成績があげられるか」―つまり、広い意味で仕事を愛しているからです。

そうでなければ、

「一日百軒の飛び込み営業をしたらどうでしょう」
「いいんじゃない」

面倒な議論は避け、賛同だけしておいてサボればいいだけのことです。

もし、あなたが近々、転職のため会社を去る予定であったなら、
「そんなの無意味だ」

と反対はせず、黙って聞き流すはずです。

こう考えていくと、「怒ろうと思っても、つい口ごもってしまう」という人は、消極的な性格だけではなく、仕事に「愛」が足りないということも一因になっている場合が少なくないのです。

 

高度経済成長期は、人も社会もたえず怒っていた

最近の若者は怒らなくなったといわれます。

理由として、成熟社会があげられます。社会が成熟すると競争しなくなり、ポテンシャルが下がるというものです。

私もかつて、そう思っていました。食う心配のない時代になれば、誰だってがむしゃらに働くわけがありません。《怒り》は競争社会において、より頻繁に発生するものである以上、男子も女子も草食系になっていくのは必然というものです。

そういう意味では、草食系は成熟社会の申し子であり、決して批難されるべき存在ではないということになります。

ところが、小泉内閣が推し進めた構造改革によって中流階級が消し飛び、上流階級と下流階級の二極になってしまいました。しかも、長引くデフレと円高で企業の収益が急速に悪化。ご承知のようにリストラの大嵐が吹き荒れ、いまも後遺症に苦しんでいます。

かつて就職といえば「社員」になることで、「派遣」とか「非正規雇用」が当たり前になろうとは、高度経済成長期に社会に巣立った私には思いもよらないことです。生活保護世帯も急増し、成熟社会は一転、貧困時代になりました。〝アベノミクス〞も先行不透明で、これから日本がどう立ち直っていくか正念場にさしかかっているといっていいでしょう。

ところが、「社会の非常時」「人生の危機」にもかかわらず、草食系の若者に《怒り》は見受けられません。

「仕事がなくてヤバイっスよ」
とは言うものの、

「冗談じゃねぇ!」
「こんな社会に誰がした!」
「政治家をブッ殺せ!」

という《怒り》も憤りも、批判もない。

私には、彼らが子羊の群れに見えてしまうのです。

高度経済成長期は、日本人の誰もが怒っていました。

学生運動に日本中が揺れ、過激派が東大の安田講堂を占拠して、機動隊と衝突しました。ウーマンリブ運動が起こり、愛人たちが支援団体の後押しで〝旦那〞のもとへ押しかけ、慰謝料をもぎとりました。成田空港の開港を阻止しようと、過激派が管制塔を占拠しました。ウラ社会だって、業界再編成に揺れ、抗争事件が多発しました。

一方、激動の時代は「ジャパンドリーム」という言葉もありました。努力次第で出世ができました。お金儲けもできました。学歴のない故田中角栄は総理大臣にのぼり詰め、「今太閤」として国民の絶大な人気を集めました。努力が報われる時代であったのか、それとも力ずくで夢を叶えたのか。昭和という時代は、善くも悪くも《怒り》が渦を巻いていたといっていいでしょう。

そういう時代を知る私は、《怒り》には〝生きるエネルギー〞があることを痛切に感じます。

いや、〝生きるエネルギー〞が《怒り》を生み出すといったほうが正確でしょう。

競走馬のように、全力疾走で前へ前へと競っていくのは、「こいつには負けたくない」という《怒り》がなければできないことです。

そんな日本人を欧米は、「エコノミックアニマル」と呼びました。でも、いま当時を振り返りつつ、欧米の凋落という現状を見ると、「エコノミックアニマル」という言葉は、実は最大の讃辞ではなかったかと思うのです。

成熟社会が崩壊し、格差社会という〝弱肉強食〞の時代になったいま、肉食系にならなければ生き残ることすら難しいと思います。《怒り》は生命力そのものであり、怒ることさえできない草食系が社会から消えて行くのは、もはや時間の問題といっていいでしょう。

このことにいつ気がつくか。ここが人生の分かれ目になるのです。

 向谷 匡史著『怒る一流 怒れない二流』より抜粋

【書籍紹介~目次】

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『怒る一流 怒れない二流』

 

プロローグ
「怒れないこと」に嫌気がさしていないか?
自分に対するごまかし
〝ダブル〟で自己嫌悪
怒れない人間は〝負け犬〟である
モチベーションと《怒り》
草食系は絶滅種と心得よ!

第1 章 
あなたは「怒れない」だけでこんなに損してる    
「怒らない人」は〝社会の傍観者〟
怒りには「反射」と「反応」の二種類がある
怒らないことによる不利益
笑顔で怒る自己演出術
《怒り》はハリネズミの〝針〟になる
怒ることのできない人は、自分の本音が言えない
「怒らないヒーロー」はいない
「怒らない」というストレス
《怒り》は貯蓄性の高い感情
《怒り》というマグマは地盤の弱いところから噴き出す
怒れない人は〝いい笑顔〟になれない
《怒り》には「愛」がある
高度経済成長期は、人も社会もたえず怒っていた

第2 章 
成功する人は「怒り」の感情をうまく利用している    
「気合い」によって《怒り》は喚起される
背水の陣を敷け
自分流の「背水の陣」
「怒る」と決めるだけで、気づかいから解放される
怒ることで、人間関係に一本筋が通る
小動物は《怒り》を演出する
「怒る」は自信につながる
《怒り》が人を動かす
10より20が勝つ大人社会のケンカ術
《怒り》と〝沸騰点〟
成功者は全員に好かれようとはしない
人間関係は「最悪の結果」を覚悟すれば道が開ける
怒ることで、気力を充実させる
私たちは常に他人の《怒り》にさらされている

第3 章
怒りの技術① 「怒り」を習慣にする日常生活
1 大きな声を出す練習をする
2 怒声は強弱とリズムが大事
3 こんな小さなことで怒ることはないと、あっさり考えない
4上手に怒るようになるには場数が大事
5《怒り》は人間的魅力に不可欠なもの
6人格に怒らず、言動に怒る
7怒ってしまったことに罪悪感を抱かない
8 「配慮」はしても「遠慮」はしない
9一罰百戒を狙う
10怒っている理由を相手にハッキリとわからせよ
11怒ったときは、相手の言い分に耳を貸してはいけない
12出かかった《怒り》は途中で飲み込まない
13ときどき怒ってみせよ

第4章
怒りの技術② 「ふざけんな、このやろう!」と思ったとき
14《怒り》を自分のエネルギーに変える方法
15独り言を装って、《怒り》を伝える
16退がるときは、必ず〝カウンターパンチ〟を打つ
17〝捨てゼリフ〟は口にしない
18ただ〝噛みつけばいい〟というものではない
19「ワイはかまへんけど」と〝善意の第三者〟を引き合いに出す
20《怒り》は、「攻め」より「責め」
21《怒り》を共感にすり替える
22攻め込まれたときの切り返し
23本当に頭にきたら思い切って怒れ
24劣勢になったら、論点をずらしてドローに持ち込む
25〝決めゼリフ〟に注意
26「敵は本能寺」で怒る
27上司への《怒り》の表し方

第5章
怒りの技術③ 相手の心を手玉に取る怒りのレッスン
28「キミだから0 0 0 0 0叱ったんだ」
29「そう言われても仕方ないだろう」
30「私が信用できないと言うんですか」と相手を追い込む
31錦の御旗を掲げる
32怒ってはいけない場面
33「厳しいことを言っていいか?」
34怒ったからといって、敵対関係になるとは限らない
35「キミがついていながら」と怒りながら責任を取らせる
36どうしても怒ることができなかったら、「伝説」をつくれ
37相手に行動をうながす「恥ずかしくないのか」
38態度で《怒り》は倍増して伝わる

エピローグ
《怒り》は「人間関係の技術」
他人と戦わない「勝者」は存在せず
「怒る力」は習得するもの
怒れない人は鈍感

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